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-恥の多い生涯を送ってきました。
3葉に映った一人の男、少年、青年姿のその顔には何処かしら不気味な雰囲気がただよってる感じがし、老人の彼はまるで特徴がない顔立ちをしている。
その写真に写っている男-葉蔵-は幼い時から、人間を恐れ、他人に対して偽りの自分を見せるお道化を演じてきたのだ。
この道化という表現に私はものすごく惹かれた。なぜなら、それは仮面<ペルソナ>のことだからだ。
我々、人間は世の中で自分に正直に生きることが困難である生き物である。少なくとも、この日本という国はそうだ。
本能、本来の自己という存在は世に出ることは難しいし、排他されるべき存在であるとされている。
そのために、本来の自己とは別の、無・意識的に作られた偽りの仮面を被り続ける必要が出てきてしまった。
つまり、葉蔵は我々である。彼の場合、他人を世の中に恐怖している自己を見破られるのを恐れていた。そのために、彼は道化の自分という仮面を被り続けるしかなかったのだ。
また、この人物は日本文学では珍しくもファザコン(言い過ぎかもしれない)であるところも注目したい。
本来、日本人の男性というのは基本的にマザコンであることが多い。
なぜかは忘れた。ただ、卑弥呼などの女性の指導者が過去に存在していたこと、日本神話における太陽神は他の国では珍しい女神であること、
また、イザナミがカグツチを生んで死亡する事などその傾向は、各所に見られる。
なぜファザコンという設定にしたのかは、モデルが著者太宰治自身がファザコンだったのかは知らないが、普通の日本人男性とは違う異質さを際立たせるためか、または、多くの女性を心から愛せなかったのは父親に対する歪んだ愛のせいとする暗喩か?
道化を演じた男が、人間失格とまで転落するほどまでに歩んだ過程。
この小説を太宰治自身の遺書という人がいるが、私は一つの小説として見た。
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映画公開ということで、原作の方を読んでみた。
非常に読みやすい。小難しい文章なんて一切無い。
国語の教科書に載ってそうなといえばお分かりいただけるだろうか?
西の魔女と呼ばれてる(といってもファンタジーの魔女ではないけど)おばあちゃんと一緒にしばらく暮らすことにした「まい」。
自然に囲まれたその家で、落ち込んでいた気持ちは次第によくなっていく。ある日、超能力の話を聞かされたまいは自分もそんな力が欲しいと魔女修行のレッスンを教えてもらう。
話の中に人は死んだらどうなるかという話があるんだけど、まいの父親は何も無い、それまでといった回答を適当ながらも交わすんだけど、おばあちゃんは魂は長い旅をしており、肉体というものを手に入れることによって成長のチャンスを手に入れ、死ぬことによって肉体から解放され、またそれを繰り返すといった考えを述べている。
つまり、肉体は魂の成長体験を行う道具であるといった考え方である。
驚いたことに、自分も以前同じような考えをしたことがあり、セリフとして出てきたときは感嘆した。
巷で言われるような泣ける話とは程遠かったが、なにか凄いものを読まされた気がする。短い文章でここまで楽しませてくれるとは感無量。
まっちゃんは「大日本人」映画監督としてデビューしましたが、そのときの批判で、「よくこんな映画で他人の映画を批評できるな」という声が上がってました。確かにいいたいことはわかると思うけど、批評と実際作るのってやっぱり違うものです。故水野晴郎も評論は大した物ですが、自身の監督出演した「シベリア超特急」はヒデェもんでした。
そういうもんです。ただし、井筒監督は認めねぇ。
ああ、何の話だっけ?ああ、そうそうシネマ坊主読んだんですよ、図書館で借りて。結構、ひねくれて書いてるのかと思いきやそうでもなかったというか、主観が入りすぎてるのもあったり、真面目に感想語ってたりしてるのもあったりとバラバラ。お笑いとかと比べてるのもなんとも微妙な例えだと思った。あえて言うなら、ブログの映画感想みたいな感じ。社会的な背景とか、一切無い。それが読みやすいのかな?
ただ、マトリックス1点の理由がわけわからない上に7500円もしたからってのはいくらなんでもないと感じた。個人の感性ならまだしもネェ。
全体的に俺の知ってる作品があまり無かったのが残念。
ということで、2も借りてきます。
24もの人格を持つビリー・ミリガンについて書かれたノンフィクション小説。
多重人格(解離性同一性障害)というものは、近年でも日本でなじみの深いものになってきており、その存在を漫画やアニメなど創作物の中で知る存在も多いだろうと思うが、中には実際の病気であること知らずに、勝手に都市伝説化してる人も多いと聞いた。
そんな多重人格であるが、本来は子供の時の性的虐待などにより引き起こされるもので、本作品のビリーもその一人である。
彼の中には、ユーゴスラヴィア人のレイゲンやイギリス人のアーサーなど、それぞれ憎悪や痛みなど、肉体の機能を引き受けてくれる、年齢性別がバラバラな人格が存在する。
この話は、彼の人格の一部が暴走し、キャンパス内でレイプ事件を起こしたところからスタートする。
この小説を読む前は、我々も感情によっては一種の多重人格であると考えていたが、彼の人格の個人個人にちゃんとした自我あり、個別に記憶を持つところから、逆に我々の人格は複数の人格が、何か強大(記憶)な結びつきによって一人であると認識しているだけではないのかと思うようになった。っでためしに調べてみると、どうやら自我同一性というものがこれに当たるらしい。
ということは、我々は精神的に一人の人間を演じている劇団員達なのではないか?
彼らは人格を交代するとき、スポットに立つという言い方をし、残された人格は、ベッドの中で眠っているか、そばの暗闇に潜んでいるのだと言う。もしかして、眠るっていうのは誰もスポットに立っていないと言うことなのではないのか?なんて思ったが、実際はどうなんだろうか。
本書は判決後のビリーの様子まで書かれ、その後は続編である「ビリー・ミリガンと23の柩」に続く。
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