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企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても国家や民族が消えてなくなるほど、情報化されていない近未来
他人の電脳にゴーストハックを仕掛けて、政府関係者に攻撃を仕掛けている謎の国際指名手配ハッカー、通称”人形使い”が国内に現れ、草薙素子率いる公安9課が人形使いの身柄を押さえるため、捜査に乗り出す。
2.0だけじゃ勿体無いのでオリジナル版も紹介したい。
本作は原作漫画の人形遣い編をベースに、所々押井節を混ぜて作られた産物。
自分の存在に悩む、全身義体のサイボーグである草薙素子は謎の天才ハッカーである人形使いを追っていく中で、その人物が公安6課のプロジェクト2501で作り出されたプログラムが、広大なネットに触れることによって誕生した生命体であることを知る。
素子が葛藤しているものは、自分の存在について。
脳と脊椎の一部以外が機械で出来ている素子は本当に自分が存在しているのか?実は、機械の塊にゴーストが芽生えた機械ではないかと考えている。つまり、「我思うゆえに我あり」や胡蝶の夢に代表される、自分が今見てる現実は偽りのものではないかという疑念を抱いているのだ。
そんな彼女が出会うのは、ネットの海で誕生した生命体。
彼女は、そんな人形使いを自分に重ねて見え、同時に人形使いも彼女と自分は合わせ鏡であるという。
機械ながらも肉体のある彼女が、自己の認識を果たせずにいたのに対し、
肉体の無い意識だけのプログラムが自らを生命体と自覚している対比。
この二人が失ったピースを補うかのように惹かれあい、やがて一つになるのにはそう葛藤は存在しなかった。(原作ではかなり迷っていたけど)
自分というモノの存在の疑問。機械でない我々でも、この現実が夢であればいいのになナンテ思うことがある。だが、それは真剣に考えてみると恐ろしいことだ。自分の見ている現実が、存在しないということは、自分という人格も存在しないかも知れないということだ。では、一体自分は本当は何なのだろうか?この物語の時代では脳みそはネットにつながれ、体は機械である人間が増えていっており、劇中で素子がいうように人間が人間であるための部品はほんの少ししか存在しない。それがゴーストである。
しかし、ネットの海で生まれた人形使いはネットの海で生まれたゴーストだった。
ということは、前述の否定であり、人間が人間であるための部品は存在しないことになる。
つまり、人形使いが自分の疑念が具現化した存在だから、自分が自分である答えを知るために融合したのだ。
(ちなみに、日本神話の内容を重ねての演出も意図してるって聞いたが、
まだ、その本を買ってないのでここでは詳しく述べられないのでまた後日。)
話が、自己存在理由についての個人的な考えだけで終わってしまいそうなので、映像とか描写とかも触れておこう。
かの、マトリックスもオマージュしたといわれている最後の多脚戦車との戦闘シーン。素子が銃撃から逃れる際に、戦車が発射する弾丸で柱や通路がボロボロになり、終いには生命の樹の下から上に打ち込まれるシーンは
短いシーンながらも何か意味ありげな感じがしていて、いいシーンだと思う。その後、多脚戦車に光学迷彩で接近し、ハッチを素手でこじ開けようとするものの、人工筋肉が耐え切れずに、腕と足がちぎれるシーンがものすごく印象的。そういえば、パッケージにもなっている線に繋がれた銃を持った裸の少佐は劇中には登場しなかったけど、印象に残る絵だ。
こんな、裸見せまくってる主人公は後にも先にも素子ぐらいじゃないか?
あとはオープニングの素子が目覚めるまでのところ。
素子が光学迷彩で落下していく中で顔を隠すところ。よほどお気に入りなのか、2ndGIGの一話でも使われていたが個人的には、劇場版の方が好き。
素子製造の過程はこの映画一番の見所だと思う。
この映像を見せることで、素子がサイボーグであることを観客に理解させる重要なシーンでもあるし、何より書き込みが凄い。
2.0ではここをCGにして欲しかったんだけど。。。
PS.2.0とオリジナルの抱き合わせブルーレイの予約が開始されました。
1万3000円はかなり痛い出費ですが、名作なのでオススメ。
本作は原作漫画の人形遣い編をベースに、所々押井節を混ぜて作られた産物。
自分の存在に悩む、全身義体のサイボーグである草薙素子は謎の天才ハッカーである人形使いを追っていく中で、その人物が公安6課のプロジェクト2501で作り出されたプログラムが、広大なネットに触れることによって誕生した生命体であることを知る。
素子が葛藤しているものは、自分の存在について。
脳と脊椎の一部以外が機械で出来ている素子は本当に自分が存在しているのか?実は、機械の塊にゴーストが芽生えた機械ではないかと考えている。つまり、「我思うゆえに我あり」や胡蝶の夢に代表される、自分が今見てる現実は偽りのものではないかという疑念を抱いているのだ。
そんな彼女が出会うのは、ネットの海で誕生した生命体。
彼女は、そんな人形使いを自分に重ねて見え、同時に人形使いも彼女と自分は合わせ鏡であるという。
機械ながらも肉体のある彼女が、自己の認識を果たせずにいたのに対し、
肉体の無い意識だけのプログラムが自らを生命体と自覚している対比。
この二人が失ったピースを補うかのように惹かれあい、やがて一つになるのにはそう葛藤は存在しなかった。(原作ではかなり迷っていたけど)
自分というモノの存在の疑問。機械でない我々でも、この現実が夢であればいいのになナンテ思うことがある。だが、それは真剣に考えてみると恐ろしいことだ。自分の見ている現実が、存在しないということは、自分という人格も存在しないかも知れないということだ。では、一体自分は本当は何なのだろうか?この物語の時代では脳みそはネットにつながれ、体は機械である人間が増えていっており、劇中で素子がいうように人間が人間であるための部品はほんの少ししか存在しない。それがゴーストである。
しかし、ネットの海で生まれた人形使いはネットの海で生まれたゴーストだった。
ということは、前述の否定であり、人間が人間であるための部品は存在しないことになる。
つまり、人形使いが自分の疑念が具現化した存在だから、自分が自分である答えを知るために融合したのだ。
(ちなみに、日本神話の内容を重ねての演出も意図してるって聞いたが、
まだ、その本を買ってないのでここでは詳しく述べられないのでまた後日。)
話が、自己存在理由についての個人的な考えだけで終わってしまいそうなので、映像とか描写とかも触れておこう。
かの、マトリックスもオマージュしたといわれている最後の多脚戦車との戦闘シーン。素子が銃撃から逃れる際に、戦車が発射する弾丸で柱や通路がボロボロになり、終いには生命の樹の下から上に打ち込まれるシーンは
短いシーンながらも何か意味ありげな感じがしていて、いいシーンだと思う。その後、多脚戦車に光学迷彩で接近し、ハッチを素手でこじ開けようとするものの、人工筋肉が耐え切れずに、腕と足がちぎれるシーンがものすごく印象的。そういえば、パッケージにもなっている線に繋がれた銃を持った裸の少佐は劇中には登場しなかったけど、印象に残る絵だ。
こんな、裸見せまくってる主人公は後にも先にも素子ぐらいじゃないか?
あとはオープニングの素子が目覚めるまでのところ。
素子が光学迷彩で落下していく中で顔を隠すところ。よほどお気に入りなのか、2ndGIGの一話でも使われていたが個人的には、劇場版の方が好き。
素子製造の過程はこの映画一番の見所だと思う。
この映像を見せることで、素子がサイボーグであることを観客に理解させる重要なシーンでもあるし、何より書き込みが凄い。
2.0ではここをCGにして欲しかったんだけど。。。
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1万3000円はかなり痛い出費ですが、名作なのでオススメ。
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映画と漫画とアニメと海外ドラマとくりぃむしちゅーが大好きです。
でも、ぞうさんの方がもっと好きです。
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